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【東日本大震災から10年】
まけないぞうを作り続けて~作り手さんからのお手紙~NO.1
東日本大震災から今年で10年が経ちました。追い打ちをかけるようにコロナ災害に見舞われた被災地は、再建のあしがかりを失ったように、東北三県では休廃業が増えています。また、復興住宅の空き室も増えコミュニティの維持や維持管理の負担も問題になってきています。菅義偉首相は昨日17日の会見で「東日本大震災から復興を遂げた姿を世界に発信し」と述べたが、被災地はいまだ復興の途上です。特に福島第一原発の事故の処理は終わりが見通せず、被災者取り残されたままです。
10年経ってもいまだ復興の途上にある被災地。あの日あの時に被災者はどう生き抜いたのでしょうか?
岩手県釜石市で被災したまけないぞうの関係者S・Tさんの証言をお伝えします。どうぞ最後までお付き合いください。いま生きているのは当たり前ではなく生かされていることに感謝しつつ・・・。長文ですが、ぜひ最後までご覧ください。
増島
智子
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2011年3月11日、14時46分。
当時私達が住んでいた岩手県釜石市に震度6弱、マグニチュード9.0という大地震が起きた。
私は、釜石市の隣町、上閉伊郡大槌町で仕事をしていた。会社は海からさほど遠くない所にあった。
地鳴りがあったかなかったか記憶はない。
携帯の警告音が鳴ったと同時に、今まで聞いたことのない、言葉では言い表せないほどの音とともに、下から突き上げる揺れに襲われた。
何が何だか分からず、すごい揺れの中、急いで机の下へ。その時、会社内に一人でいたため、ただただ恐怖の中にいたのを覚えている。どれくらいの時間揺れていたのか。すごく長く感じた。もぐっていた机が潰れたため、揺れが少し弱くなったすきに急いでトイレへ駆け込んだ。
ドアが開かなくなると逃げられなくなると思い、ドアノブを掴み隙間を開けたまま、またすぐに来た大きな揺れをやり過ごした。
恐怖の中頭に浮かんだこと。“必ず津波が来る!”
小さい頃から海のそばで暮らしてきたため、【地震が来たら津波が来る】と教わってきた。
“家に帰んなきゃ”“子供たち迎えに行かなきゃ”2回目の大きな揺れがおさまるあたりに急いで車に走った。
心臓の音が指先まで伝わっているのを感じるくらい、恐怖でハンドルを握った手の震えが止まらなかった。とにかく急いで車を出した。
パニックにはなっていたが、頭は変に冷静で一瞬で色々考えた。
車を走らせながら、まずは学校に行っている子供2人の事。
時計を見ると、いつもなら下校の時間になっている。子供たちの学校へ向かうべきかどうか?
歩いている生徒を一人でも見かけたら、下校した後ということで、子供たちは登下校する道のどこかにいるはずだからその道へ向かおう。
生徒の姿は見当たらない。これはみんな学校に残っている!下校前だったんだ。
学校にいるなら全員で避難しているはず!と確信を持った。
すぐ母に電話したがすでに通じなかった。
家には1歳の息子と、私の母がいた。父が仕事から帰っている時間ではあったが、もし帰っていなかったら目の見えない母と1歳の息子だけ。
学校の子供たちを信じ、まず家へ向かった。
家に着き、玄関のカギを開け父と母を大声で呼んだ。返事なし。父の車はある。
““避難したんだ!””
私はヒールから玄関にあったスニーカーに履き替え、カギをかけて指定されていた避難所へ走った。父・母・息子の姿はない。
何人か避難していたが、そこは高台ではない場所。避難していた人たちに、「ここにいたらダメだよ!高台に避難しなきゃ!絶対に津波が来る!!私は恋の峠に行くよ!」と伝えて、また走り出した。
私たち家族は、地震が来た時の避難場所を〖家から一番近い峠の頂上にしよう〗と話し合っていたので、ためらわずそこへ全速力で走った。
峠の頂上に、父・母・母におぶられた息子がいた。3人の顔を見て一安心したのも束の間、学校の子供たちはどうなっているのだろう。姿が見えない不安と焦りで心臓が爆発しそうになっている。
子供たちの学校は、海からわずか700メートルの所にあったので、避難訓練の時は津波からの避難も想定し行われていた。毎回学校から800メートルも離れた避難場所まで全校生徒で走る訓練をしていた。
私たちが避難した峠は、学校の指定された避難場所へ繋がる道がある。
“子供たちは走っているはず!”“全員で走っているはず!”たくさんの恐怖の中、信じた。
何度も大きな余震で揺れる。地震発生からどれくらいの時間がたったのだろう。
峠から見えていた町の景色が変わる。防潮堤を海の水が恐ろしい速さで乗り越えてきたのだ。私の目の前で何が起こっているのか理解できない。
防潮堤を乗り越えた黒い水は、ものすごい音と速さで建物を破壊しながら町を飲み込んでいく。家という家の姿が目の前から消えて行く。
『津波だーーーーーーーーーー!!!!』
誰も想定していなかっただろう規模の大津波だった。町が消えて行く。
“子供たちはどうなっている?”“私たち助からないかもしれない、死ぬかもしれない”と考えていた。
波が海とは反対側の山に、水しぶきを上げてぶつかっている光景を見ながら、体の震えが止まらなかった。“これは現実なの?”夢を見ているのかと思った。
その時、悲鳴とともに一生懸命に峠を駆け上がってくる子供たちの姿が見えた。“生きていた!!!!!!!”子供たちの後ろまで津波は迫っている。みんな必死に走っていた。頂上まで着いた子たちに順に「大丈夫?」「大丈夫?」と声をかけた。声をかけながら我が子を探した。子供たちでいっぱいになっていく峠。その中に長女が見えた。学校からの長い距離を無我夢中で走ってきたんだろう。3月の釜石はとても寒い。防寒着は着ていなかった。足元を見ると上履き。“走りにくかっただろうに・・・”長女は、「ママー!」と駆け寄った。こわばっている顔。
当時小学3年生だった長女は、堰を切ったように泣き出した。
「怖かったよね、本当に頑張った。ここまでよく走って来てくれたね。」
さっきまでとは違う感情で体が震える。長女の確認はできた。私はすぐに、当時小学1年生だった長男を探す。探しても見つからない。近くにいる子供たちに聞きながら探した。みんな「わからない。」と言う。先生を見つけて「1年生はどこですか?」と聞いた。先生は「途中まで後ろを走っていたのですが。すみません。わからないです。」と言った。頭が真っ白になる。先生も必死に走ってきたんだろう。“先生がわからないということは、ここに居ないということは。津波に巻き込まれたのか・・・”
“どうしよう。死んだかもしれない。”頭がおかしくなりそうだった。体の震えが増して、立っているのがやっとの状態だった。少しすると、最後の方に上がってきた人が、1年生は走っている途中道の脇へそれたよと教えてくれた。
同じクラスに子供がいるお母さんと私の父と一緒に、探しに行くことにした。
顔を見るまで、生きているのか・・・信じられない。
自分の命よりも大切な子供を、大切な命を失うかもしれないという恐怖。今までに感じたことのない恐怖だった。
峠を下っていると、坂を上がってくる子供たちの姿の中に長男が見えた。
“生きてたーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!”
子供たちの通っていた小学校には、隣接して中学校があった。後に聞いた話だと、
避難時、中学校の生徒が先に走り始め、その後を小学校の生徒が走った。学校から800メートル離れた指定された避難所へ着いたが、今までにない地震の大きさに「ここではダメだ!もっと高台へ避難した方がいい。」という話になったらしく、そこから更に500メートル程坂を上った所にある老人ホームへ向かうことになる。
中学生が小学生を励まし、声掛けしながら手を引き走ってくれた。“自分たちも恐怖でいっぱいだっただろうに・・・”
集団の最後の方を走っていた体力のない1年生はこのまま道をまっすぐ走っていたら間に合わない、津波はすぐ後ろまで迫っていたため、走っていた道のすぐ脇の、山を切り崩した高台へ登るという事になった。山を切り崩しただけの所だったため、足場は悪く垂直に近い角度の崩れやすい土を踏みしめながら上の方まで上がったらしい。そこへ登る時も中学生が小学生を下から押し上げたり、上から引っ張ってくれた。そこにいた子供たちは全員助かった。自分たちもどうなるかわからない中、自分たちよりも小さい子供たちを支えてくれた。当時伝えられなかった思いを今ここで伝えたいです。《今でも感謝しています。本当にありがとう。》
色々な形でその日は家族に会えなかった人、その日だけではなく、何日間か会えず別々の場所で連絡も取れない不安の中過ごした人もいる。
私たち家族は運命的に同じ場所へ避難したため、地震が起こったその日離れ離れになることはなかった。その運命に感謝したし、とても幸せなことであったと思う。
私たちは10年前の3月11日、1日にしてそれまで送っていた普通の日常生活を失った。住んでいた家・乗っていた車・着ていた服や履いていた靴・毎日遊んでいたゲーム機・いつも一緒に寝ていたお人形やぬいぐるみ・子供たちの成長を撮りためたビデオテープ・思い出がいっぱいの写真・など、失った物もたくさんあった。子供たちの成長を撮っていたビデオテープや写真がなくなったことがとても悲しく辛かった。でも、何よりも大切な命があった。思い出は自分の中にある、いつでも思い出せる。生きていて良かったと心から思う。
その命を守るために、震災天災が起こった時、自分に何ができるのか、どのように行動できるのかを想定しておくことは大切だと思う。そして、普段から何かあった時の連絡の取り方や避難場所を家族で話し合っておくことが大切だと思う。
私たちの分岐点だった10年前。簡単には言葉で言い表せない10年間の道のり。震災を経験した人、支援ボランティア活動をしている方たち、自衛隊の方たち、色々な形で支援して下さった方たち、遠い場所から励まし、心配し、支えてくれた家族。それぞれの思いがあっての10年間だと思う。そして、たくさんの人の愛に出会った10年間でもある。私たちは、そのたくさんの愛に感謝しています。
《心からありがとうございます。》
震災を経験してきた私たちだけではなく、10年前、日本中、地球上でそれぞれの形でその時を見つめ、一緒に歩んできたみんな。
きっと私たちにとって、東日本大震災は10年前に起こった事という過去のものではなく、今もこれからも一緒に生き続けて行くものなのだと思う。
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